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​天国に入るには pdf

いま、イエス様の再臨の時が迫っています。

そして、その予兆となる出来事が昨今、起こっています。

≪私たちはいま、どう生きるべきなのでしょうか?≫

 いつの時代もそうですが、今の時代は特に、イエス様再臨の時、空中に引き上げられ(携挙(けいきょ)といいます:Ⅰテサ4:17、マタイ24:40-41)、永遠の命を与えられ、天国に入れるよう準備すべき時です。

≪では、イエス様再臨の時、携挙に与かり、天国に入るためにはどうしたらいいのでしょうか?≫。

天国に入る一大条件はこうです。

「罪から離れ、新しく生まれ変わり、聖なる者となること」

別の言い方をすれば、こうです。

「黒い衣の状態から白い衣の状態に生まれ変わること」

  

  この一大条件を裏付ける聖書の箇所:

  「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」

  (ヨハネ3:3)

  「聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」 

  (ヘブライ12:14)

​​  「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違

   いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男

   娼、男色をする者、 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、

   人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」
  (Ⅰコリ6:9-10)

  「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣

   を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなこ

   とをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者

   は都の外にいる」

      (黙示録22:14-15)

 

 天国は、100%罪のない、完全な聖なる世界です。ですから、罪を持ったままでは(黒い衣のままでは)天国に入ることができません。天国に入るためには、100%罪のない、聖なる者となる(白い衣の状態となる)必要があります。

 

 でも私たちは、心の中で腹を立てたり、言葉で人を裁いたり(非難したり)、人に思いやりを示さなかったり等、日々罪を犯している罪人(つみびと)です。聖なる者とはおよそ懸け離れた者です。このままでは天国に入れません。

 

 そのため、2000年前、神のひとり子であるイエス様が世に来られ、十字架で私たちの罪を背負い、その血によって私たちの罪を洗い清めてくださったのです。神様を信じて生きてこなかった罪をはじめ、それまでの罪を心から悔い改め、イエス様が十字架の血によって罪を洗い清めてくださったことを受け入れる時、それまでの罪はイエス様の血によって洗い清められ、私たちは、100%罪のない、真っ白な者、聖なる者(コロサイ1:22、ヘブライ10:10、13:12)となって、天国に入る資格を与えられるのです。

 

 まさにこの状態のとき亡くなるとすれば、私たちは天国(楽園:ルカ23:43)に入れます。すなわち、罪を心から悔い改め、十字架の罪の赦しを信じた直後に亡くなれば(そして、その信じたあと何も罪を犯さなければ)、私たちは天国に入れるのです。なぜならその人は、罪から解放された、真っ白な、聖なる状態にあるからです。

 

 ただ、十字架の罪の赦しを信じた直後に亡くなるというのは、まれです。十字架の罪の赦しの福音を信じ、洗礼(洗礼は聖書的には、全身水に浸かる浸礼が正しいやり方ですが、ここでは差し当たり洗礼という言葉を使っておきます)を受けた人は、多くの場合、福音を信じた後、数年ないし数十年生き続けます。

 

 では、十字架の罪の赦しの福音を信じた後は、どのような生き方をしても天国に入れるのでしょうか。そうではありません。たとえば、窃盗で捕まった人が罪を悔い改め、十字架の罪の赦しの福音を受け入れ、洗礼を受け、クリスチャンになったとします。でも、その後、窃盗を繰り返し、罪を悔い改めず、世を去ったとしましょう。すると、その人は天国には入れないのです。なぜなら、その人は、罪を抱えた真っ黒な状態にあるからです。

 

 いま多くの教会で、十字架の罪の赦しの福音を信じて、洗礼を受けさえすれば、天国に入れると教えています。しかし、それは誤りです。もしそれが正しいのだとすれば、受洗後、連続窃盗の罪を犯し、いっさい罪を悔い改めずに亡くなったこの連続窃盗犯のクリスチャンも、罪まみれの真っ黒な状態のまま天国に入れることになってしまいます。これは、誰がどう考えてもおかしなことです。

 

 罪の一切存在しない、聖なる世界である天国に入るためには、罪から離れ、新しく生まれ変わり、真っ白な、聖なる者となる必要があります。それが聖書から明確に聞き取れることです(ヨハネ3:3、Ⅰコリ6:9-11、ガラ5:19-21、ヘブ12:14、黙22:14-15、マタイ7:21-23)。

 ですから、十字架の罪の赦しの福音を受け入れ、イエス様の血によって罪を洗い清められ、真っ白な者となった後は、その白い衣の状態を保って生きていくことが求められているのです。具体的には、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といった聖霊の実を結び(ガラ5:22-23)、聖霊の導きに従って生きていく(ガラ5:25、ロマ8:14)ことが求められているのです。つまり、十字架の血によって罪が洗い清められ、聖なる者となった者(コロ1:22)は、今度は、行いの点で聖なる者となっていくことが求められているのです。

  「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさ

   せるためです」(Ⅰテサ4:7)。

  「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し

   出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面

   で聖なる者となりなさい」(Ⅰペト1:14-15)。

 

 しかし、行いの点で100%聖なる者となることは人間には不可能です。ですので、私たちは絶えず罪を悔い改める必要があります。聖霊の助けによって行いの点で最善を尽くしながら、至らないところについては、罪を悔い改め、十字架の血潮によって罪を洗い清めていただく。そのようにして、自らの衣を絶えず白い状態に保ち、聖なる者として生きていく時、私たちはいつ死んでも天国(楽園)に入れるし、いつイエス様が再臨されても、空中に引き上げられ(Ⅰテサ4:17、マタイ24:40-41等)、永遠の命を与えられ、天国に入れるのです。

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